投稿日:2016年12月21日
私の子供の時は今でいう貧困家庭でした。
父親は死去して母子家庭で母子寮という、トイレも無い6帖一間の1Kに住んでいました。
ある時母親が「明日、給料日なんだけど、1000円残ったから映画見に行く?」と聞かれて、「コロッケを3個食べたい」と答えたのを覚えています。その頃は、週一回のコロッケが私にとっての最大の楽しみでした。そのコロッケが2個だったのですが、いつも3個食べたいと思っていたのです。
その後、母親が再婚して引っ越して、県立高校を卒業し、無事に私立大学に行けました。
母親の再婚は恋愛というものではなくて、いわば「シェア家族」みたいなものでした。住居費・食費など生活費を2つの家族で暮らすことで減らして、子供の教育費を捻出したのです。この判断が無かったら、今の私はないだろうなと思います。「貧困の連鎖」に入っていたと思います。
東大生の親の年収が高くて、親の年収と学力が比例しているという現在の時代で、貧困家庭のこどもが貧困の連鎖から抜け出すためには、思い切った生活の転換が必要だと思います。
シェアハウスや山村留学やサ高住コミュニティや移住など、生活・食事レベルや教育レベルを落とさずに、支出を極限までにゼロにすることを真剣に考えるべきです。
また社会や住宅企業が、そういった人達をバックアップすることが求められています。引退した高齢者が土地・建物を買ってコミュニティを作り、そこに賃貸住宅も併設して母子家庭をタダに近い家賃で入れる。そして介護や食事の世話や掃除などを母子家庭の親が職業としてやる。子供は保育クラブを作り、高齢者が相手をして、昔ながらの遊びを教えたり、勉強を教えたりするなどの「サ高住」をどうして作らないのでしょうか。
住宅企業の社会的意義が問われています。それを果たさない住宅企業は人口減少・少子化で住宅ストックが世帯数よりも多い時代の中で、消えていく運命にあることを認識しないのでしょうか。
いたずらに、単なる箱であり金融的役割しかない賃貸住宅ばかり建てているようでは、住宅企業には社会的存在価値はありません。