郊外大型分譲住宅の生みの親は小林一三だった。時代は小林一三を求めている。
投稿日:2013年4月7日
新築一戸建て分譲は大きく分けると、「駅近狭小」と「郊外大型」に分かれます。
その郊外大型はもともとは鉄道事業の沿線拡大に伴って開発されてきました。
この鉄道駅を起点として沿線の宅地開発をすすめるというモデルのもともとは1907年(明治40年)の大阪から始まりました。
1907年に箕面有馬電気軌道で社長をしていた小林一三は、阪神電鉄のように大阪と神戸という大都市を結ぶことによる鉄道事業ではなくて、箕面と有馬とい田舎へ走る電車のために、線路予定地の広大な土地に住宅開発をして乗客を増やしていき鉄道事業を行うという逆転の発想の私鉄経営モデルを打ち出したのです。
そして田園風景が広がる池田町(現・池田市)室町の9万平方メートルをご飯の目のように整備して、そこに2階建てで間取りは5から6部屋の「建売り住宅」を200戸作り、3000円で売り出したのです。
この時のパンフレットに「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と郊外型の新しい生活スタイルを提案し、自らパンフレットに書いたそうです。
大卒初任給が30~40円の時代ですから3000円は8年分の収入に相当しますので普通では買えません。このサラリーマンなどの新中間層にも買えるように割賦販売を導入したというのですから驚きです。
そのおかげで住宅は瞬く間に売れたとそうです。
その後、阪急神戸線も開発して、「しゃく川」や芦屋などを住宅地開発するなど広げていき、大阪市民の郊外移住を促したのです。
この時の新築一戸建て分譲の郊外大型というビジネスの創造には、割賦販売というものが大きく貢献しています。そういうものを新たに作り、やり遂げた小林一三の事業家としてのすごさが郊外大型分譲というものの誕生のキーといえます。
現在、郊外大型分譲がビジネスとして行き詰まりを見せています。
日本全体としの省エネ推進のために自動車を極力減らすという時代の要請として、駅近くでのコンパクトシティがこれからの住宅の姿になりつつあります。
そのような時代の並みに飲み込まれつつある郊外大型分譲の存在価値をどこかに見出さなければなりません。
ひとつは郊外だからこそ太陽光発電の効率が上がるということがあります。都会の狭小3階建ては日当たりがあまりよくないので、太陽光発電を載せても効率は悪くならざるをえません。郊外であればほとんどは南側に6メートル以上の接道となっていて日中はフルに稼働します。
さらに、ガス発電と風力発電などを加えて自家使用をまかなう以上の物にすれば良いのです。そして車は電気自動車にして、団地全体で共同で使うようにすれば、無駄な自動車はなくなり、無駄な走行も減ります。
つまり郊外大型分譲は「太陽光発電+ガス発電+電気自動車共同使用」というものである必要があります。
さらに、新築一戸建て分譲に求めるものとして、都に近くて駅に近いものを求められますが、ひとつは教育があります。東日本大震災の影響で「職学住近接」が理想とされています。さらには、学習塾というものが欠かせないのですが、それに通うのに駅近が求められます。そして私立中学に通うためにも、より都心につ近くて駅に近いほうが良いということになります。私立小学校になるとなおさらです。
このためにはシャトルバスを検討するとか、スクールバスを検討するとか考えなければないでしょう。そんなの行政許可が簡単におりないし、何より採算が合わないということがあります。それでも小林一三なら何とかしたと思います。
やはり郊外大型分譲を存続し続けさせるためには、小林一三のような信念と創造力と行動力のある事業家が取り組んでもらわないと行けないと思います。
それを戸建分譲のリーディングカンパニーは行わなければなりません。
新築一戸建て分譲は確実に曲がり角にきています。大事業家が中興の祖として新たなモドルを生み出さなければ30年後に戸建分譲という言葉はこの世の中になくなっているてもしれません。